今年(2024年)9月上旬にニュージーランド北島のハミルトン市にあるワイカト大学へ行ってきました。季節は初春でしたが,気温は17度にもなり,記録的な暖かさを連日更新していました。
庭先にはモクレン,一部の街路にはサクラ,公園にはサツキツツジが咲いていました。猛暑の日本から脱出した直後に,早春から初夏が同時に訪れたような不思議な季節を体感しました。
ホテルの部屋では,就寝中もテレビのマオリ語チャンネルを付けっ放しにしていました。日本語とよく似たリズムのマオリ語をずっと聴き続けていると,音韻論的な発見があったり,言語学的な仮説を思いついたりしてとても楽しめました。
慣れ親しんできたイギリスとは違って,<外国にいる>という実感がありました。
ニュージーランドの人口は,2023年の国勢調査によれば,462万2千560人です。国民の約98%が英語を使って暮らしています。その英語は19世紀半ばに風土の異なるイギリスから伝わったものです。
ニュージーランドの人たちはキーウィと自称し,ニュージーランド英語をキーウィ英語と呼んでいます。
ニュージーランドがイギリス領となったのは1840年2月6日,先住民マオリ族の族長たち50人とイギリス政府が,北島のワイタンギ集落で条約を締結し,ヴィクトリア女王が主権を獲得しました。はじめはオーストラリアのニューサウスウェールズ植民地の一部でした。タスマニア島と同じ扱いでした。
初期のオーストラリア移民の多くが話していた英語は,ロンドンとその周辺の英語,つまりマイルドな「コックニー」でした。そのために今でもコックニーとオーストラリア英語とニュージーランド英語の発音は似ています。
わかりやすい例は二重母音です。price の「アイ」は,喉の奥から「ア」を発音するような [ɑɪ] で,mouth の「アウ」は,口角に力を入れて,口の真ん中から「ア」を発音するような [æʊ] です。today を「トゥダイ」,face を「ファイス」と発音することはよく知られています。
このような英語がニュージーランドの風土の中で変容を続けています。上記の二重母音はオーストラリア英語と同じですが,短母音はずいぶん変わってしまいました。
例えば,オーストラリア英語では母音を引き延ばして発音しますが,キーウィ英語では前寄りの短母音が一段ずれています。Hay et al. (2008, p. 23) は,fish and chips の発音を使って,その特徴を示しています。大雑把ですが,オーストラリアでは,feesh and cheeps と発音し,ニュージーランドでは,fush and chups と発音すると書いています。
ニュージーランドでは,マオリ族の子孫に当たるマオリ系民族が現在も国民の16.7%を占めています。マオリ語は英語と共に公用語になっていて,マオリ語を流暢に話せる人は少なくても,国民の多くが名詞や挨拶のマオリ語表現を知っています。また,大都市の中心部を除けば,地名がマオリ語なので,住所はマオリ語で表記しているようなものです。
Lindsey (2022) が面白い指摘をしています。イングランド北部英語とニュージーランド英語では,同じ短母音を使っているというものです。しかし,それらの短母音を使う語彙のグループは,その割り当てが6つ短母音のうち4つ,異なっています。
標準英語となったイングランド南部の英語では,17世紀以降,「FOOT母音とSTRUT母音の分裂」が起こったために,STRUT母音(strut, but, cup, done などの母音)は,FOOT母音(foot, put, full, good などの母音)とは別の母音となりました。しかし,イングランド北部の英語には,その分裂が生じませんでした。ですから今でもSTRUT母音はFOOT母音のまま「ウ」と発音しています。
従って,イングランド北部英語の短母音は,シュワー(あいまい母音,弱母音)を除けば,5つ(の音素)となって,標準英語よりも母音の数が1つ少なくなります。シュワーを含めて6つということです。
そして,イングランド北部とニュージーランドで,母音と単語の割り当てが異なるというのは,短母音を使う6つの語彙グループの中で,FOOT母音とLOT母音(lot, box, odd, pot などの母音)の語彙グループは共通であるものの,前寄りの4つの母音では,語彙グループが違うということです。
つまり,キーウィ英語では,dress は「ドリス」,trap は「トレプ」,KIT母音(kit, ship, milk, myth などの母音)はシュワーに近い中央よりの母音になります。そして,キーウィ英語のSTRUT母音とイングランド北部英語のTRAP母音(trap, cat, man, tax などの母音)は,どちらも日本語の「ア」とほぼ同じ母音で発音されます。
今回,ワイカト大学の学生たちの協力を得て,実際に音声を収録して,音声分析ソフトで音響分析をしたところ,KIT母音が完全なシュワーになる人は少ないということがわかりました。しかし,協力者全員の発音がシュワーの方向(中央寄り)に変化していることは事実でした。
Hay et al. (2008, p. 41) は,このようなキーウィ英語の短母音の変化は,20世紀になってから生じたと論じています。また,そのきっかけは,TRAP母音の「上げ」(raising) であると指摘しています。
つまり,trap が「トレップ」と発音されるようななったことが始まりとなり,前寄りの短母音が順に押し上げられたようです。DRESS母音がKIT母音の位置(狭母音)までやってきたので,KIT母音は,DRESS母音との違いを示すために内側に移るしかなく,シュワーに近づいたということになります。
どうしてそんなことがわかるかと言うと,ニュージーランド南島のクライストチャーチ市にあるカンタベリー大学のエリザベス・ゴードン (Elizabeth Gordon) 先生が,1990年から録音調査を開始したからです。1996年からは「オンズ・プロジェクト」(the Origins of New Zealand English (ONZE) project) となって,現在も続いています。
初期の音声収録で,高齢者の発音を分析したところ,KIT母音の変化は,1910年から1930年に生まれた話者から見られはじめ,19世紀に生まれた90歳代の話者にはほとんど見られなかったとのことです。
最後にキーウィ英語の特徴をもう2点加筆しておきます。
1つは「暗い /l/ (dark /l/) の影響」が強いことです。後舌が持ち上がった音節末の /l/ は,アメリカ英語と同じように,先行する母音を後ろへ引いてしまいます。culture は「コルチャー」,bulb は「ボルブ」と発音されます。
2つ目に「母音の中和」(vowel neutralization) が挙げられます。中和というのは区別がなくなることです。こちらも暗い /l/ の影響が関連しています。
LOT母音とGOAT母音の中和では,doll と dole の発音が同じになります。どちらも doll で発音され,dole は二重母音ではなくなってしまいます。
DRESS母音とTRAP母音の中和では,fellow と fallow が共に fellow と発音されます。
音声収録では,あらかじめ単語リストを作成して,実験協力者にそれを読んでもらいます。目的の単語を散りばめて作成するのですが,このような中和の現象に母語話者は気付いていません。
ワイカト大学の学生たちが音声収録の途中で,自分が前に読んだ別の単語と全く同じ発音をしていることに初めて気付いて,恥ずかしくて顔を赤らめたり,笑い出したりするという場面がありました。2週間という短い滞在でしたが,南半球の異文化空間の中で楽しい研究ができました。
参考文献
Hay, J., Maclagan, M. and Gordon, E. (2008). New Zealand English. Edinburgh: Edinburgh University Press.
Lindsey, G. (2022). Do New Zealand and Northern England have the same vowels?! [Online video]. https://www.youtube.com/watch?v=3TfbtouLm14